Mar
11
2010

悪口と批判に関する神様との対話

神様: 「ひとの悪口を言う人と、悪口を言わない人がいる。 君は、どちらが良い人だとおもうのかね?」

人: 「それはもちろん、悪口を言わない人だと思います。」

神様: 「なるほど。それでは、君は良い人と悪い人のどちらになりたいのか?」

人: 「当然、良い人になりたいに決まっています。」

神様: 「それなら、なぜ君は人の悪口をいうのかね?」

人: 「それはあの人が悪い人だからです。彼はある意味優秀かもしれないけれど、コミュニケーション能力が低く、傲慢なやつなんです。喋り方も 『自分は出来る奴』 といわんばかりの気取った話し方で気持ち悪いのです。だから・・・」

神様: 「だから、君は悪口を言うのだね」

人: 「そうです。彼は悪口をいわれるに値する人なのです。」

神様: 「なるほど。でも、君が悪口を言うことによって、状況は良くなるのかね?その人は君の悪口によって良くなるとおもうのかね」

人: 「神様、お言葉ですが、僕が言っていることは悪口ではありません。悪い人に対する批判です。主観的なものではなく、あくまで罪に対する客観的な指摘に過ぎません。」

神様: 「なるほど。 それでは 『あいつの話し方が気持ち悪い』 というのも、主観的なものではなく、客観的な事実だというのだね。」

人: 「まぁ、そうです。彼は客観的に気持ち悪いのです。ゴキブリを見て気持ち悪いといっても、それは罪でしょうか。」

神様: 「それでは、少し目先を変えてみよう。君は何らかの悪い状況があったときに、それを改善しようと努める人と文句ばかり言って何もしない人、どちらを尊敬するかね」

人: 「それは物事をより良い方向に変えられる人のことを尊敬します。」

神様: 「それでは、君はその彼の誤りを直し、状況を改善してはどうだね?」

人: 「いえ、その必要はありません。なぜなら、僕は彼とはなんら関係が無いからです。」

神様: 「君は関係の無い人に対する批判をしている、というのか」

人: 「そうです。その人の罪、誤りを、僕と関係のある人と共有することによってそこから学ぶことが出来ます。それによって、僕と関係のある人がより良くなることを望んでいます。その意味で、僕は状況を改善しているといえると信じています。」

神様: 「本物の悪、無慈悲に対してはそれは正しいだろう。」

人: 「はい。だから僕は間違っていないのです。」

神様: 「なるほど。それでは、君の事を誰かが 『気持ち悪い』 と言ったら、君はどうおもうかね?」

人: 「まぁ、いい気はしませんね。でも、それは事実に反することなので、単にそれを口にした人が間違っていると思い、僕は気にしないでしょう」

神様: 「君は、物事の真偽を一方的に決め付けるのだね」

人: 「え?そうでしょうか。」

神様: 「君が 『気持ち悪い』 と思う相手は 『客観的に気持ち悪い事実』 とし、君の事を 『気持ち悪い』 という相手に対しては、『客観的に誤り』 としているのではないかね」

人: 「でも、それが事実ですから」

神様: 「君の論法を、立場を変えてそのまま適用すれば、君が気持ち悪いという人にとっては、君の意見は 『客観的に誤り』 ということになる。そうではないかね」

人: 「僕の意見には同意する人も多いし、僕の意見が正しいでしょう。物事には絶対的な真実はあると思います。満開の桜は誰が見ても美しいものであって、それを気持ち悪いという人は稀でしょうし、そういう人の感覚は誤っていると思います」

神様: 「しかし、その桜にしてもそれを美しいと思わなければいけない、ということはないのだよ」

人:「まぁ、そういう人がいても罪ではないでしょうね。」

神様: 「たとえ桜を美しいと思わなくても、そこに罪はないし誤りでもない。」

人: 「ええ」

神様: 「君が本当に 『桜』 であるかどうか、それについても論じないでおこう」

人: 「そんなに美しくはないかもしれませんが」

神様: 「君が正しいと思っていることに従わないからと言って、そこに罪や誤りがあるわけではないことが理解できたところで話を戻そう。

それならば、なぜ君は自分が正しく、相手に罪があると考えるのだ。君の主張は、桜を美しいといわない人に罪がある、誤りがあるといっていることと同じにならないかね。」

人: 「単に僕の例えが悪かったかもしれません。草花や海や川などの自然美を語ることと、人の社会のルールやコミュニケーションについて語ることとは質が違います。例えば、窃盗という罪は自然にあるものではなく、所有権という社会的なルールがあってはじめて発生する罪で・・・」

神様: 「彼は自然のものではなく、社会的なルールに対する罪を犯している。だから、その罪は批判の対象になる、といいたいのかね」

人: 「そうです。」

神様: 「それでは、君は彼が 『自分は出来る奴といわんばかりの気取った話し方である』 という点を指摘していたが、それは一体どんな社会的なルールを犯しているというのか」

人: 「それは簡単です。自分は出来る奴と思う傲慢な態度が悪いのです。」

神様: 「しかし、そもそも 『彼は自分が出来る奴と思っている』 ということ自体、君が貼ったレッテルではないのかね。自分が貼った悪であるというレッテルを見て、それをさも客観的な真実として、相手に罪がある、悪であるということは、重大な悪なのだよ。

大罪を犯した歴史上の人物を考えてみなさい。そうした者は自分が正しく、相手は悪である。従って相手を殺しても良い。という論法で人を扇動するものなのだよ。自分は悪である、といえば、人を動かすことはできないものだ。大きな罪を犯すものは、まず自分を正義の側に置こうとするものなのだよ。自分が正義だと感じ、相手を批判する時こそ、君は慎重にならなければならないのだ。

立場を変えれば、君も同じことをしている、ということを理解するべきなのだ。」

人: 「そうなのかもしれませんね。でも、彼はコミュニケーション能力が低いなどの問題を抱えているのです」

神様: 「それもまた君の偏見であり、レッテルなのだよ。仮にそうだとしても、それは罪かね。完璧な人はいないのではないか。君だって、全ての能力が十分であるわけではないだろう。」

人: 「まぁ、罪ではないかもしれません。私も完璧ではないでしょう」

神様: 「もし君が、彼はコミュニケーション能力が低いと感じたならば、君は彼にそれを教えてあげることもできるだろう。それこそが、問題の解決になると思わないかね」

人: 「まぁ、そうですけど。そこまでして、別に今さら彼にそこを改善して欲しいとは思いませんね。彼とは関係ないですから。」

神様: 「これで、彼に罪は無く、君はその問題解決に協力する意思もないことがはっきりしたようだね。君が問題解決に関わらないならば、そのことで彼の問題点を探すことは正しいことではない。

君は社会のルールに反する罪といった詭弁、一方的な偏見をやめ、人のよいところをみるように努めるべきなのだ。お互いが人の特徴を認め合い、尊敬しあう世の中があったら素晴しいとは思わないかね。

君が人をみるとき、人柄を長所や短所・欠点としてみないように努めると良いだろう。人にあるのは特徴だけだ。その特徴は、人によってそれを長所と思う人もいれば、短所と思う人もいる。それをどうみようと、それはその人の特徴なのであって、それは良くも悪くも無い。それが個性なのだ。

君は自分に同意するかしないか、とか、好きか嫌いかという基準で人の個性を長所といったり、短所と言ったりする傾向がある。特に前に言ったとおり、自分を正義の側におき相手を批判する傾向がある。その点は十分に戒めるべきなのだよ」

人: 「そうですか。僕は比較的客観的に物事を判断する能力に長けているものだと思っていましたが・・・」

神様: 「わかればよい。最後に君の一番の欠点を指摘しておこう。いま私は個性があるだけであり、見方によっては長所にも短所にもなると言ったのだが、神の立場から欠点としか言いようの無い君の性質を指摘しておこう。

君は自分の嫌いな相手の身体的特徴をからかうことがあるだろう。そうしたことを仲間と言い合うことがあるだろう」

人:「いえ、そんなことを言った覚えはありません。」

神様: 「うそをつくのはやめなさい。私は全て知っているのだよ。そういう話は相手に全て伝わるものだよ。

身体的特徴のような、相手に全く罪の無い事柄を馬鹿にすることは、君の人間としての品格の悪さを露呈しているものだ。深く反省し、こうして今私に指摘されたことの意味をよく考え、今後はそういうことのないように行動しなさい。

ひとことで言えば、こうだ。 君は、もう人の悪口をいうのはやめなさい。」

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